ブルゴーニュ・ワインで有名なブルゴーニュ地方にある、美しい村をご紹介します。
ブルゴーニュは英語ではburgundy(バーガンディ)。ボルドーと同じ、色の名前にもなっています。
ブルゴーニュ地域圏にあるシャブリで有名なヨンヌ県。ここに観光客がつめかける古い街があります。
それがヴェズレー(Vézelay)。
ヴェズレーはどんなところ?
この街の教会とその周辺は1979年、国連の世界遺産に登録されました。
どんなところか動画でごらんください。
のどかで美しい中世の趣をたたえる村。
確かに美しいのですが、見どころは多くはありません。
動画には
basilique 大聖堂 バシリカ
église 教会
roche 岩清水
pont 橋
の4つが出てくるだけ。
しかしヴェズレーはある理由から12世紀から13世紀にかけて、大勢の人が押し寄せ、ひじょうに繁栄したのです。
サント・マドレーヌ聖堂にある遺骨
この街で一番の観光スポットはビデオで最初に出てくる
Basilique Sainte-Marie-Madeleine (サント・マドレーヌ聖堂)。
マリー・マドレーヌは、フランス語でマグダラのマリアのこと。
マドレーヌはギリシア語でマグダラです。
12世紀になって、この修道院のお坊さんが、「マグダラのマリア様の頭蓋骨がここに祭られている」、と宣言。そのため巡礼者が押し寄せ、聖地サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の起点にもなりました。
サンティアゴ・デ・コンポステラについてはこちらをどうぞ⇒コンポステラへの道~パリ発「虎と小鳥のフランス日記」第120話
マグダラのマリアとは
マリア(フランス語でマリ)は、とても平凡な名前。あちこちにマリアがいたため、どこそこのマリア、というふうに区別されていました。
名字はなかったんでしょうね。
聖書で聖母マリアの次に有名だと思われるのがこのマグダラのマリアです。
マグダラのマリアはバイブルの重要なところで登場。宗派によっていろいろな見方がありますが、イエスと親しい女性、また弟子として、聖女となり信仰の対象です。
遊び女(娼婦という解釈あり)で罪深かったマリア。しかし、イエスと出会い改心。イエスの巡礼のお供をし、彼の処刑と復活に立ち会います。ほかの弟子にイエスの復活を伝えたのもマリアです。
カトリックでは、マグダラのマリアは、イエスが亡くなったあと、ラザロ(イエスの友達)や、自分のお姉さんと、なぜかフランスのマルセイユに漂着し、洞窟で30年間、祈りの日々を送ったという伝説があります。
現在、彼女の遺骨はマルセイユのそばのサント・ボームの山の上にあります。
この遺骨を12世紀にヴェズレーのお坊さんが、「自分たちが移したからここにある」と主張したのです。巡礼者が押し寄せたとき、実際、数々の奇跡も起こったようですが、昔のことすぎて真偽のほどはわかりません。
1295年に、当時のヴァチカンのえらい人が、「南仏にあるのが、本物の骨である」、と認定したため、ヴェズレーのサント・マドレーヌ聖堂の人気は急落し、一気にさびれました。
ロマネスク建築
File:Basilique à Vézelay.jpg – Wikimedia Commonsより
巡礼者が押し寄せたとき、大量のお布施をしたので、ヴェズレーの宗教関係者は、教会の建築にお金をかけることができました。
そのおかげでバシリカ(La basilique de Vézelay ヴェズレーの大聖堂 あるいは La basilique de Sainte Marie-Madeleine サント・マリー・マドレーヌの大聖堂)は壮麗なロマネスク建築を誇っています。
みごとな彫刻があるし、大聖堂では夏至の日の2時(昔の正午)に、太陽が窓から差し込むと、その光が一直線になって聖壇に向かうそうです。
これが当時の信者には奇跡と映りました。
昔、そんな建築ができたことは、今考えても奇跡的ですね。
ヴェズレーのツーリズムのサイトでは大聖堂をこう説明しています。
La basilique
Laissez-vous envahir par la splendeur de cet immense vaisseau roman où, dans une danse ininterrompue, la lumière – symbole de la vie éternelle – fait vibrer la pierre.
大聖堂
輝かしい、大きなロマネスクの身廊に身を任せてください。永遠の生の象徴である、光が絶え間なく交差する舞踏のような空間の中で。そこでは、聖なる石が響いているのです。
・・・かなり意訳しました。
元記事 → Office de tourisme de Vézelay et du Vézelien – La basilique
ヴェズレーを救ったメリメ
「マグダラのマリアの骨なんてなかった」、ということになり人々の足が途絶えたヴェズレー。
その後は打ち捨てられていましたが、19世紀半ばに、作家のメリメ(1803-1870)がこの場所を再発見します。
プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée)は後にオペラになった小説『カルメン』を書いた人。
メリメは裕福な家の出身で、学校では法学を学び、国家公務員となり、フランス政府から歴史記念物監督を任せられました。
彼は作家のみならず、歴史家、考古学者でもあったのです。
おとうさんは、画家であり文学者、お母さんも画家という家庭に生まれたメリメ。本人も絵を描くのが得意でした。
メリメは神秘的なこと、非日常なこと、そして歴史が大好き。
語学も得意で、多言語を学習しています。その内訳は、英語、ロシア語、現代ギリシャ語、アラビア語。
難しげな言語ばかりですね。メリメはフランスでロシア語の翻訳した最初の1人であり、ツルゲーネフやプーシキンを訳しています。
芸術的なことも、法学という実務的なことも語学も得意でマルチな方だったようです。
非日常が好きで、外国語も得意なメリメ。だから、『カルメン』のような外国を舞台にした小説が多いのでしょうね。
メリメが歴史記念物監督官(l’Inspecteur des monuments historiques)の仕事の一貫で、ヴェズレーを訪れたとき、彼は大聖堂の建築のすばらしさに魅せられ、建築家に修復させました。
この建築家がよい仕事をし、ヴェズレーはすばらしい大聖堂をたたえる美しい街となったのです。
ヴェズレーは作家のロマン・ロラン(Romain Rolland)(1866-1944)が晩年の6年間を過ごした街としても知られています。
先週はボルドーワインのお話をしました。
こちら⇒ボルドー名物メドックマラソン
ヴェズレーの歴史をたどると感慨ぶかいものがあります。
13世紀に人々が押し寄せたときも、そのあと一気にさびれて、打ち捨てられていたときも、500年後にメリメがやってきたときも、この街は今のように神秘的なたたずまいを見せていたのでしょうね。
今は、通年で観光客や巡礼する人が訪れています。
来週はもう1つ、フランスの美しい村をご紹介する予定です。お楽しみに。
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