キュリー夫人の生涯を4分ほどのスライドにまとめた動画を紹介します。
タイトルは、Marie Curie, scientifique engagée(マリー・キュリー、社会参加をした科学者)。
キュリー夫人を知らない人はいないと思いますが、キューリー夫人は、ポーランドに生まれ、後にフランスに渡った化学者・物理学者で、ラジウムを発見した人です。
生涯にノーベル賞を2度、受賞しています。
Marie Curie, scientifique engagée
4分25秒。フランス語の字幕あり。
前編は、2分10秒まで訳します。
トランスクリプション
Première femme à recevoir le Nobel, elle est l’une des plus grandes scientifiques du XXe siècle.
Mais Marie Curie ne fut pas qu’une savante studieuse dans son laboratoire.
Son parcours fut animé par un engagement infaillible pour les droits des femmes, l’émancipation par le savoir, le progrès social et la paix entre les peuples.
Maria Sklodowska naît à Varsovie en 1867 d’un professeur de mathématiques et d’une mère institutrice.
Élève brillante, elle participe très tôt à «l’université volante», une école clandestine pour l’éducation populaire des Polonais, à une période où la Pologne et sous la domination de l’empiré russe.
Elle s’identifie au courant positiviste d’Auguste Comte qui cherche à comprendre le monde grâce à la science.
Après des études en sciences physiques à Paris la prodige réalise une thèse sur les substances radioactives.
Elle envisage de rentrer en Pologne et former la nouvelle génération de scientifiques mais renonce par amour pour un autre savant, Pierre Curie.
Marie Curie fréquente une communauté de scientifiques dreyfusards, laïcs, républicains et progressistes.
Elle obtient le Nobel de physique à 36 ans, pour ses travaux sur la radioactivité et réussira l’exploit d’obtenir un deuxième Nobel en chimie à 44 ans.
– Marie et Pierre Curie isolaient à leur tour le radium le premier corps radioactif connu.
Mais la gloire et les lauriers l’intéressent moins que l’utilité publique de ses découvertes.
«Notre société ne se rend pas compte que la science est à la base de tous les progrès qui allègent la vie humaine et en diminuent la souffrance.»
En 1906, Pierre Curie meurt, renversé par une calèche.
Marie Curie est chargée de le remplacer à la Sorbonne.
Malgré la douleur et le deuil, elle donne brillante leçon inaugurale.
Une première dans cette prestigieuse université française et un affront pour certains confrères masculins.
キュリー夫人・和訳
キュリー夫人は、女性初のノーベル賞受賞者で、20世紀を代表する偉大な科学者の一人です。
しかし、マリー・キュリーは、実験室で研究ばかりしている学者ではありませんでした。
彼女の生涯はゆるぎない社会参加で彩られています。女性の権利獲得、知識による女性の解放、社会の進歩、人類の平和のために、活動したのです。
マリア・スクウォドフスカは1867年、ワルシャワで、数学の教師の父と、学校の先生の母の間に生まれた。
優秀な学生だった彼女は、とても早い時期に、「空飛ぶ大学(l’université volante)」に参加しました。この学校は、ポーランド人の大衆教育を目的とした地下組織です。当時、ポーランドは、ロシア帝国の支配下にありました。
彼女は、オーギュスト・コントの実証主義の考えに強く賛同しました。彼は、科学によって世界を理解しようとしていました。
パリで物理学を学んだあと、神童マリーは、放射性物質に関する論文を書きました。
マリーはポーランドに戻って新しい世代の科学者を教育するつもりでしたが、もう一人の科学者、ピエール・キュリーへの愛のため、この計画はあきらめました。
マリー・キュリーは、ドレフュス派の人、非宗教的な人、共和主義者、進歩主義者などの科学者の集まりによく出ていました。
放射能の研究により、36歳で、ノーベル物理学賞を受賞し、44歳のとき、化学賞で、2度めのノーベル賞を受賞するという偉業をなしとげました。
- マリーと、ピエール・キュリーは、交代で、ラジウムを分離しました、世に知られる初の放射性物質です。
しかし、彼女は、栄光や名誉より、自分たちの発見を公共のために役立てることに関心がありました。
「社会は、科学が、人類の生活を楽なものにし、苦しみを減らしてくれる進歩の基盤となることをわかっていません」。(キュリー夫人の言葉)
1906年、ピエール・キュリーが、4輪馬車にひかれて亡くなりました。
マリー・キュリーは、彼の後任としてソルボンヌ大学に着任しました。
苦しみや悲しみにもかかわらず、彼女は、見事な最初の講義をしました。
由緒あるフランスの大学で、女性が講義をするのがこれが初めてで、男性の同僚の中には、マリーを侮辱する者もいました。
☆後編はこちら⇒キュリー夫人の生涯(後編)。
単語メモ
un courant (世論、思想などの)動き、傾向、思潮
positiviste 実証主義の ☆「実証主義」は辞書によると、知識の対象を経験的事実に限り、その背後に超経験的実在を認めない立場。超越的思弁を排し、近代自然科学の方法を規範とする。
un exploit 偉業
alléger (苦しみなどを)やわらげる
une calèche (折りたたみ式幌〈ほろ〉のついた)4輪馬車
un affront (人前での)侮辱、辱め
キュリー夫人・関連動画
Une vie : Marie Curie(ある人生:マリー・キュリー)
2分13秒。昔のニュース映像なども出てきます。
☆関連記事⇒ノーベル賞って何ですか?(子供向けの簡単な説明)
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キュリー夫人は、今から、150年ほど前の、1867年11月7日が誕生日です。
キュリー夫人は、女性で初めて、フランスの大学に雇われて給料をもらった人です。
そもそも、自分が学生だったとき、女性が科学を勉強できる学校が限られていました。
アカデミックな世界では、今とはずいぶん状況が違っていたようです。その分、苦労も多かったでしょうね。
キュリー夫人は、名誉やお金には興味がなく、ひたすら研究への情熱に燃える不屈の精神の持ち主、という気がします。
結婚相手のピエール・キュリーも同じタイプです。
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