「虎と小鳥のフランス日記」第57話に出てきたバイオリンと、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』について書きます。
57話は、2年前の2012年の夏、パリの市庁舎で行われた、「震災後の日本再生、東日本大震災からの再生ビジョン」というイベントのエピソードです。
きょうご紹介するバイオリンは、動画のバックの音楽を演奏しているバイオリン。『雨ニモマケズ』はパリ市助役のスピーチに出てきました。
それでは、まずバイオリンのお話から。
TSUNAMI VIOLIN Project~千の音色でつなぐ絆プロジェクト
ジェラール・プーレは演奏したあと、こう言います。
Donc, voici le symbole de la renaissance.
Ce magnifique violon que vous avez entendu est promis peut-être à une carrière exceptionnelle.
これは再生のシンボルです。
皆様にお聞きいただいたこの素晴らしいヴァイオリンには、おそらく特別な前途が約束されているのです。
実は、このバイオリンは、被災した陸前高田の流木で作られています。流された楓と松を使って、バイオリンドクターの中澤宗幸氏が作りました。
亡くなった方への追悼と、災害からの復興、再生の願いをこめて、この楽器を千人のバイオリニストに順番に演奏してもらう、というプロジェクトが進んでいます。
それが『千の音色でつなぐ絆プロジェクト』。
このプロジェクトのPVです。
現在、流木から作った楽器の数は少し増えて、各地でコンサートが行われています。
1000という数字は千羽鶴や、千手(せんじゅ))観音菩薩にあやかっているそうです。
素敵なプロジェクトですね。
詳しくはホームページとフェイスブックでどうぞ。
前回の記事はこちら⇒パリより東日本大震災を考える~「虎と小鳥のフランス日記」第57話
『雨ニモマケズ』
パリ市助役 Christian Sautter(クリスティヨン・ソテ)のスピーチに、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の一節が出てきました。
Et j’ai été frappé à la fois par l’inquiétude mais aussi par l’immense courage de mes amis japonais, qui…, comme le dit le poète : «On ne doit pas se… On ne doit pas céder à la pluie.»
そして日本の友人たちの不安な心境と大きな勇気、その両方に心を打たれました。彼らはかの詩人が言っているように『雨ニモマケズ』のようでした。
inquiétude 不安
céder à ~に譲歩する、屈する、負ける
Il cède à ses supérieurs.
彼は上司の言いなりだ。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は詩として受けとられています。でも、実際は、彼が亡くなる2年前の秋(1931年、昭和6年)に手帖に書いていた文章です。
亡くなったあと、弟さんが遺品の中から見つけました。
自己献身の精神がシンプルに綴られています。
戦前は修身の教科書、戦後は国語の教科書にのっていて、もともと国内では有名でした。
今回、再生への象徴として、さまざまなイベントでも使われ、海外でも知名度があがりましたね。
Ame ni mo Makezu — Wikipédiaより、最初の7行の原文と、仏語訳をご紹介します。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰルne pas céder à la pluie
ne pas céder au vent
ne pas céder à la neige, ni à la chaleur de l’été
avec un corps solide
sans être entravé par le désir
sans jamais perdre de tempérament
toujours tranquillement en souriant
原文はこちらにあります⇒宮澤賢治 〔雨ニモマケズ〕
作品として発表したものではない『雨ニモマケズ』が宮沢賢治のもっとも有名な作品の一つとして知られているのは、興味深いですね。
震災から、3年3ヶ月。2014年6月11日に、被災した沿岸で集中捜索がありました。
10日現在、岩手、宮城、福島の3県で行方不明者の数は2611人だそうです。
これは公式発表なので、実際はもっと多いでしょうね。
3年たちましたが、まだすごい瓦礫の山。どこから手をつけたらいいのだろうか、と思ってしまう光景です。
復興まで長い年月がかかりそうです。それこそ気が遠くなるような。
実は、『虎と小鳥のフランス日記』が生まれたのもこの震災に関係があります。
震災後、日本のために何かできないかと開かれたパリの集会で、主催者の織田先生と動画を撮影しているアントワーヌが出会ったことがきっかけなのです。
震災でたくさんのものが失われましたが、きょうご紹介したバイオリンや、この教材のように生まれたものもありました。
復興にむけて、自分ももっと何か生み出していけたら、と願っています。
Gerard Poulet (1938-)
11歳でパリ国立音楽院に入学し、2年後には審査員全員一致の首席で卒業。18歳の時には、イタリアのジェノーヴァでのパガニーニ国際コンクールで最優秀賞を受賞。偉大な教育者でもあり、長年教授を務めたパリ国立高等音楽院を2003年に退官後、パリCNR市立音楽院のソリストコースとエコール・ノルマル音楽院で教鞭を執り、2005年4月から2009年3月まで東京芸術大学の客員・招聘教授、2010年4月からは昭和音楽大学の客員教授を務めている。ウィーンや北京の音楽院でも教える他、京都フランス音楽アカデミー、いしかわミュージック・アカデミーを始め世界中でマスタークラスを行っている。 1995年フランス芸術文化勲章及び1999年文化功労賞を受賞。
日本人ヴァイオリン奏者では、山田晃子、米元響子、佐藤俊介、川畠成道らが指導を受けた。 以上 wiki 日本語版
彼の父は Gaston Poulet(1892 – 1974 )は後に指揮者になりますが、第一大戦前は、若い頃は優れたヴァオリニストであり、自分の名前を冠した Quartet を結成していました。Proust は音楽を聴きたくなると、夜中でも Gaston に電話をかけて、自宅にQuartet を呼び、一番好きなベートベン弦楽四重奏曲 13-17番を演奏させました。当時パリにはもっと有名な四重奏団がいたのですが、夜中に自宅に呼びだせるのは、音楽院を卒業したばかりのこの4人組みでした。
Gerard が生まれて1938年にはもうProust は亡くなっていましたが
(1922年没)、父から Proust の話をよく聞かされたということです。東京芸大が Gerard Poulet を招聘したのは、フランス音楽、フランスバイオリンを教える専門家が欲しかったからで、芸大で教えていたころ、私は彼のサンサーンスを聴いたことがありますが、日本人奏者にないまさにフランス音楽でした。
樋沼さん、こんにちは。
ジェラール・プーレの詳しい情報をありがとうございます。
プーレって日本の学校で教えてるから、あのイベントに呼ばれたのかな、と軽く考えていましたが、すごいバイオリストなんですね。
フランスのバイオリニストはやはり、フランスの音みたいなものが出せるんでしょうかね。
プルーストも音楽好きなんですね。お金持ちだったから、夜中に音楽家を呼び寄せることができたんでしょうね。うらやましいです。
コメント、ありがとうございます。
penさんこんばんわ。
こうやってあの日が忘れられずに皆さんの心の中にあること本当に嬉しく思います。
茨城であの恐怖を体で感じました。
あの後、茨城を離れ地元に戻りましたがあの日の思いを事あるごとに語るようにしています。
温かな気持ちに触れる事が出来ました。ありがとうございました(*^^*)
myuさん、こんばんは。
震災からまだ3年しかたってないし、全然復興してないのに、メディアはあんまり報道しなくなりましたね。
茨城もすごくゆれたでしょうね。
ご無事でよかったです。
コメント、ありがとうございます^^