本日はリクエストにお応えして、ルネサンス時代のフランスの歌をご紹介します。
作曲はクレマン・ジャヌカン(Clément Janequin, 1480年頃 – 1558年)。この人は、宮廷で楽しむ歌を作ったこと有名で、シャンソンというジャンルを創りだした作曲家の1人です。
Qu’est-ce d’amour ? 恋はどんなものなのか?
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作詞:フランソワ1世(François 1er)
Qu est-ce d’amour comment le peult on paindre ?
Si c’est ung feu dont l’on oyt chacun plaindre
Dont vient le froit qui amortist ung cueur ?
Si c’est froideur qui cause la chaleur
Dont toute l’eau ne peult amais estaindre ?
S’il est si doux par quoy n’est doncques moindre
L’amertume ? S’il est amer sans faindre
Aprenez moy dont vient ceste doulceur
Qi’est ce ?
古いフランス語なので、見慣れない単語がちらほらあります。タイポではありません。辞書にものってませんでした。
現代フランス語でも苦戦しているのに、昔のフランス語なんて訳せませんが、場所から品詞を判断して、訳してみました。
ご参考までに。
恋はどんなものなのか?
恋はどんなものなのか? どうやって絵に描くことができるのか?
もし恋が炎で、みなを嘆き悲しませるものなら
人の心を弱らせる、その冷たさはどこから来るのか?
もし恋が冷たいものなのに、熱を起こすものなら、
どんなに水をかけても、消すことはできないだろうね?
恋はとても甘いものなのだろうか
苦味? 恋はまぎれもなく苦いものなのか
教えておくれ、この苦痛はどこから来るのか
何だろうか?
単語メモ
plaindre (古)~を嘆く
amortir ~を弱める
froideur 冷たさ
estaindre = éteindre 消す
moindre 最も小さいもの
amertume 苦さ
faindre = feindre ~のふりをする
doulceur 苦痛
恋する感情の相反する要素を歌っていると思われます。
フランソワ1世
この歌の作詞はフランソワ1世です。たぶん、彼の書いた詩にジャヌカンが曲をつけたのだと思います。
フランソワ1世(1494-1547):ヴァロア朝第9代フランス王
アングレーム伯の息子で、ルイ12世のいとこ。ルイ12世にお世継ぎがいなかったので、王位継承権を獲得。
はじめはブルターニュ公でしたが、のちに王さまになります。
ちなみにルイ12世は、オルレアン公の息子で、ルイ11世の娘と結婚していたのですが(王の命令)、ブルターニュ地方が欲しかったので、ローマ教皇に頼んで最初の結婚を無効にしてもらってから、ブルターニュの王女のアンヌと結婚。女の子が2人生まれ、長女がクロード。
このクロードがフランソワ1世と1514年に結婚します。クロード15歳、フランソワ20歳。
ウィキペディアによると「クロードの結婚生活は、絶え間ない妊娠と夫が作った多くの愛人たちの存在のため、心が安まることはなかった。末子マルグリットを生んだ翌年、1524年にクロードは死去した。」
とのこと。ウィキペディアに書いてあることがすべて事実とは言えませんが、子沢山(3男4女)だったのは確かです。
クロードと娘たち
フランソワはクロードが好きで結婚したのではなく、王さまになりたくて結婚しました。そのため夫としては今ひとつだったかもしれません。
でも、王としては行動力があり、芸術を振興し、フランスでは人気があります。
野心的な王さま
ルイ12世の頃から、フランスはイタリアに介入していたのですが、その政策を続けたため、スペイン(神聖ローマ帝国)のカール5世とイタリアを巡って20年以上争います。
ひじょうに野心的な王さま、と言えましょう。
芸術振興
彼はイタリア美術が大好きでした。フランソワ1世にかぎらず、当時、フランスは軍事的にはイタリアより強かったのですが、イタリア美術には圧倒されていました。
現在フランスのルーブルにイタリア人(レオナルド・ダ・ヴィンチ)の描いた「モナ・リザ」やらがあるのは、当時、イタリアからフランスに持ってきたからです。
フランソワ1世は作品を集めるだけではあきたらず、ダ・ヴィンチをフランスに呼び寄せます。
その頃、ダ・ヴィンチはローマで不遇でした。ミケランジェロに負けてる感じだったのです。そこで、喜んでフランスにやってきます。
ほかにもイタリアの芸術家がたくさんフランソワ1世のお城である、フォンテーヌブローの宮殿に呼ばれました。
フランソワ1世はそうした芸術家といっしょに数々のプロジェクトを試みます。ルネサンス式の大きなお城を複数も作っています。フォンテーヌブロー派という美術のムーブメントが生まれたほどです。
ちなみに、ダビンチは1452年生まれなので、フランソワ1世より42歳も年上です。ダビンチがフランスに来たのは1515年ですから63歳です。このときフランソワは21歳。
年の差なんて関係なく、2人は一緒にダ・ヴィンチのデザインでお城を作ろうと計画しました。
結局このお城はできなかったのですが。
フランソワ1世が、フランスルネッサンスの発展に貢献したことは間違いありません。
女性にもてた王さま
カール5世と争っているとき、一時捕虜になり(1525年)スペインに幽閉。1530年、和平の一環として、レオノール(カール5世のお姉さんで、ポルトガルの王さまの未亡人)と結婚します。上に書いたように最初の妻、クロードは1524年に亡くなっています。
このレオノールとは幽閉されてる時に、仲良くなったらしいので、やはり女性にはもてる人だったでしょう。
その他の功績
ジャック・カルティエ(カナダのケベックを発見したと言われる)に北米を探検することを命じたのは彼です。
ジャック・カルティエについてはこちらを⇒第16話 サン・マロ その1
また、それまで、フランスの公式文書はラテン語だったのですが、フランス語を使うことに決めたのもフランソワ1世。
今の、コレージュ・ド・フランスであたるコレージュ・ド・ロワイヤル(Collège de Royale)の設立もしました。
たくさんお城を建てていることからわかるように、精力的な王さまだったことは確かでしょう。
忙しい合間にきょう紹介したような詩まで書いていたわけです。
シャンボール城
最後に、フランソワ1世が建てた城の代表として、シャンボール城をご紹介します。トップの画像もこのお城です。
1分16秒(英語)
狩猟のために作ったにしては大きすぎるこのお城。ルネセンス様式です。
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