ミュシャの絵

フランスにまつわるあれこれ

アルフォンス・ミュシャ、ベル・エポックのイコン。

2018年の秋から、2019年の1月にかけて、パリのリュクサンブール美術館(musée du Luxembourg)でアルフォンス・ミュシャ展が行われていました。

そのさい、放映されたミュシャを紹介するテレビ番組、最初の1分40秒を紹介します。



アルフォンス・ミュシャ展

トランスクリプト

Une jeune femme élégante des fleurs dans les cheveux, une affiche de pub richement décorée… Entre 1894 et 1901, le peintre d’origine tchèque Alphonse Mucha est devenu une star grâce à ces images. Mucha, c’est le premier artiste publicitaire. Explications dans Le choix du 20H.

Des réclames pour des biscuits, du parfum, une compagnie de chemin de fer, le style Mucha envahit les villes françaises à l’aube du XXe siècle. En 1894, l’actrice Sarah Bernhardt commande à l’artiste alors inconnu, une affiche de théâtre.

Le style est si nouveau, l’image si belle que des passants décollent les affiches des murs pour les rapporter chez eux. À 34 ans, Mucha est une star, du jour au lendemain. Les grandes marques lui commandent même des emballages pour des gaufrettes ou des savons.

Quelque part, c’est un peu l’inventeur du design graphique, du design du packaging. D’un côté c’est un art un peu déclassé, par, on va dire, les institutions et de l’autre côté, c’est au contraire extrêmement bien vu par les artistes d’avant-garde.

Pour l’avant-garde, les cheveux utilisés comme motifs décoratifs, la composition des affiches… Pas de doute, c’est bien de l’art !

Le moins convaincu, c’est peut-être Mucha lui-même. À partir de 1901, il préfère se tourner vers une œuvre plus classique, une épopée slave.

Un travail moins connu du grand public. Les affiches, elles, ont traversé le siècle et l’idée d’inviter l’art dans le monde de la publicité fait toujours recette aujourd’hui.

トランスクリプションはTV5MONDEにありますが、一定期間をすぎると別のものに変わるので、トップにリンクしておきます⇒TV5MONDE – Langue française

スクリプトの和訳

髪に花をかざったエレガントな若い女性。豪華な装飾のパブのポスター。

1894年から1901年まで、チェコ出身の画家、アルフォンス・ミュシャは、その作品で知られたスターでした。

ミュシャは広告業界初のアーチストでした。Le Coix du 20H (この番組の名前)で説明します。

ビスケットや香水の広告、鉄道のキャンペーン、20世紀のはじめ、ミュシャのスタイルはフランス中の街にあふれました。

1894年、女優のサラ・ベルナールが、当時無名だったミュシャに、芝居のポスターを依頼しました。そのスタイルはとても新しく、絵はとても美しかったので、通行人が彼のポスターを盗み、自分の家に持ち帰りました。

34歳のとき、ミュシャは一夜にしてスターになりました。一流ブランドが、ウエハースや石けんのパッケージのデザインまで注文しました。

「ある意味、彼は、商品パッケージのデザインという、グアフィックデザインを発明した人です。体制側からは、低く見られていた芸術であった一方、逆にアヴァンギャルドの芸術家たちはひじょうに高く評価していました。

アヴァンギャルドにとっては、髪を装飾に用いることや、ポスターの構成は、まぎれもなく芸術だったのです」。

もっとも納得がいかなかったのは、たぶんミュシャ自身だったのでしょう。1901年から、彼はより古典的なスラブ叙事詩に向かいました。

大衆にはあまり知られていない作品です。

彼のポスターは世紀を越え、広告の世界で芸術を生み出すという考えは、現代もずっと続いています。

単語メモ

réclame   広告

chemin de fer  鉄道

envahir  広がる、覆う、浸透する

du jour au lendemain  すぐに、たちまち、あっという間に

emballage  包装材

gaufrette  (クリームやジャム入りの)ウエハース

d’un côté…, d’un autre côte…  一方では…、他方では…

déclassé   等級/地位のさがった

institutions   (法律、監修などによって確立された)体制

ミュシャ関連動画

ミュシャ展を紹介する別のテレビ局の動画です。

ミュシャを一躍有名にしたのは、1894年の暮に制作されたサラ・ベルナールの、Gismonda(ジスモンダ)という名の芝居のポスターです。

そのポスターは1分35秒あたりで映し出されます。



アルフォンス・ミュシャの経歴

生まれはスラブ地方

ミュシャは1860年7月24日、モラビア(Moravie)の小さな街の、あまり豊かでない家庭に生まれました。小さいときから、とても絵がうまかったそうです。

10代後半のとき、プラハの美術学校の試験をうけましたが、落ちました。ほかのキャリアに進んだほうがいいと言われたそうです。その後、ウィーンに行き、劇の背景の絵を描く仕事を得ました。

雇い主のおかげで、彼はウィーンにある美術館や博物館、劇場や宮殿に無料で入ることができ、さまざまな芸術を吸収し、地元のアーチストとも親交を持ちました。

その後、仕事をしていた会社の上得意であった劇場が火事で燃えてしまったので、ミュシャはろくにお金をもたずに、モラヴィアのミクロフという街に行き、肖像画やお墓の文字を描く仕事などをはじめました。

伯爵の援助を得る

彼は絵がうまいため、クワン伯爵(Count Eduard Khuen-Belasi)という人が自分のお城の壁画の仕事やらを依頼しました。ミュシャは宗教画にも才能を見せます。

このお城はのちにこわされてしまったものの、ミュシャの作品の一部分は残っていて、いまは 地元の美術館に展示されているとのこと。

この伯爵は自分でも絵を描く人で、ミュシャにミュンヘンにある美術学校に行くことをすすめ、学費や生活費も保証してくれました。そこで、彼はミュンヘンに向かいます。1885年、ミュシャが25歳のときです。

ミュシャがミュンヘンの美術学校に行ったかどうかは、はっきりしないそうですが、この街でほかの画家たちと交流し、いい影響を受けました。しかし、当時のミュンヘンは留学生が暮らしやすいところではなかったため、ミュンヘン行きをすすめた伯爵は、今度は、ローマかパリに行くよう、ミュシャにすすめました。

かくして、ミュシャは1888年に、パリに向かったのです。28歳ごろです。

パリにやってくる

パリでは2つの美術学校に行ったので、彼のスポンサーだった伯爵は、「もう充分絵の勉強はできたな」と思い、1889年に、お金の援助をやめました。ただ、この伯爵家の人々との友情関係はずっと続いていたそうです。

その後ミュシャは雑誌や新聞のイラストレーターの仕事をしていました。

1894年の暮れ、彼の人生を大きく変えるできごとがありました。

サラ・ベルナールの芝居のポスターを描き、これが大評判となったのです。

クリスマスホリデーに、休暇をとった友人の代わりに、ミュシャが、印刷所で校正の仕事をしていたら、その印刷所にベルナールのポスターの注文が入りました。

急ぎの注文で、1月1日までに納品しなければならなかったため、ミュシャが描いたのです。

その後の活躍は、紹介した動画にあるとおりで、ミュシャはたくさんのポスターを描いています。

しかし、彼はもともと、歴史を題材にした絵を描きたいと思っていたので、スポンサーとなってくれる人を探すために、1904年に、はじめてアメリカに行きました。フランスでの仕事も残っていたので、ときどき帰って仕事をしていました。

1906年にはいったんプラハに帰って結婚をし、その後、新妻をともなってニューヨークに戻っています。アメリカではニューヨークに住み、絵を教える仕事をしました。これまでやっていたような、広告の仕事は一部の例外を残して受けませんでした。

晩年の代表作、スラブ叙事詩

チャールズ・クレーンという富豪が、彼の「スラブ叙事詩」のスポンサーになることを承諾したので、1910年、彼は、祖国に戻りました。この「スラブ叙事詩」はかなり大規模なプロジェクトで、完成するまで18年ぐらいかかっています。

この後はずっとチェコで仕事をしていました。チェコといっても、昔は呼び名が違います。

彼の祖国は、1918年に、オーストラリア帝国から、チョコスロバキア共和国になっております。

1930年代は、チェコにとっては不穏な時期でした(まあ、ヨーロッパ全体がそうです)。1939年、ドイツのナチが、チョコスロバキア共和国を解体し、ミュシャもきびしい尋問を受けました。

ミュシャは祖国を愛していたし、チェコスロバキア共和国が誕生したときは、国のために、国章や紙幣などを無償でデザインしていました。

ナチはそういうところが気に入らなかっったのです。

ミュシャは数日間、尋問を受け、釈放されますが、しばらくして肺炎にかかり、1939年の7月14日、78歳でなくなりました。

ミュシャについて詳しいことを知りたい方はMucha Foundationのサイトなどを見るといいでしょう⇒Mucha Foundation

******

アルフォンス・ミュシャは名前からしておしゃれな感じがしますが、本名は、Alfons Maria Muchaで、チェコ語の発音では、アルフォンス・マリア・ムッハです。

彼のパトロンは伯爵とアメリカのお金持ちだけでなく、ほかにも何人かいますし、親しくしていた友人もいます。

芸術家が世に出るためには、サポートしてくれる人の存在は不可欠ですね。






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