フランス・ギャルの夏らしい(?)歌をご紹介します。
Bébé Requin(ベベ・ルカン)という曲で、直訳は「サメの赤ちゃん」。1968年のヒット曲です。
自分はサメの赤ちゃんであなたのハートを食べつくす、という不思議な歌詞です。
短い曲で単語もやさしいです。これまで紹介したフランス・ギャルの曲の中で1番簡単だと思います。
男性ダンサーと出演しているやや笑える動画を選びました。
Bébé requin 鮫の赤ちゃん
ちょっと年配のダンサーを使っているのはわざとなのでしょうか?
フランス・ギャル1人だけのビデオもあり、見た目はそっちのほうがいいのですが、こちらのほうが音がクリアだったのでこちらにしました。
それでは訳詞に挑戦。
Viens, suis-moi, je connais une route d’émail
Qui mène au pays de perles et de corail
私のあとについて来て。エナメルの道を知ってるの。
その道を行くと真珠と珊瑚の国があるの。
☆Je suis un bébé requin
Au ventre blanc, aux dents nacrées
Dans les eaux chaudes, je t’entraînerai
Et sans que tu le saches
Avec amour, avec douceur
Moi, joli bébé requin
Je vais te dévorer le cœur
私は鮫の赤ちゃん。
おなかが白くて、歯は真珠色
温水の中で、あなたを誘惑するわ
あなたの知らないうちに
私の愛と優しさで
私、私は鮫の赤ちゃん
あなたの心を食べ尽くす☆
★Bébé requin, bébé velours
Bébé requin, bébé d’amour
Bébé requin, bébé velours
Bébé requin, bébé d’amour
鮫の赤ちゃん、ビロードの赤ちゃん
鮫の赤ちゃん、愛の赤ちゃん
鮫の赤ちゃん、ビロードの赤ちゃん
鮫の赤ちゃん、愛の赤ちゃん★
こっちに来て。波の上で馬跳びして遊びましょう。
砂の国で下ろしてあげる
☆~☆繰り返し
★~★繰り返し
あなたをキープするために、お姉ちゃんたちと争うわ
あなたの心を食べ尽くすのは私だけよ
☆~☆繰り返し
★~★繰り返し
歌詞はこちら⇒France Gall – Bébé requin Lyrics | Genius Lyrics
単語メモ
suis — suivre ~の後についていく
émail エナメル、ほうろう、七宝
requin 鮫
nacré 真珠のような光沢のある
名詞 nacre 真珠層 bouton de nacre パールボタン
entraînerai — entraîner 引きずり込む、人を巻き込む、惹きつける
sans que 接続法 ~することなしに
sans que tu le saches あなたが気づかないうちに
dévorer むさぼり食う
dévorer son goûter おやつをむしゃむしゃ食べる
saute-mouton 馬跳び
jouer à saute-mouton 馬跳びをする
フランス語では「羊跳び」というのですね。
文法ワンポイント
suivre 後についていく は現在形1人称単数と2人称単数の活用が、 êtreは現在形1人称と全く同じです。それぞれの活用を書いておきます。
suivre
je suis
tu suis
il suit
nous suivons
vous suivez
ils suivent
être
je suis
tu es
il est
nous sommes
vous êtes
ils sont
フランス・ギャル(France Gall)のプロフィール
フランス・ギャルは1947年10月9日パリ生まれ。
アイドル歌手(イエイエの歌手)として一時代を画した人です。日本のアイドル歌手の原型とも言えるかも。
フランスは芸名で、本名はイザベルです(Isabelle Geneviève Marie Anne Gall)。
お父さんが作詞家でその縁で、1963年、16歳のときにレコード会社と契約してレコードを出し売れました。
さらに1965年にユーロビジョンソングコンテストで«Poupée de cire, poupée de son«(夢見るシャンソン人形)を歌って優勝し、大ブレーク。
この曲、セルジュ・ゲンズブールが作ったのですが、アイドル歌手がテーマのかなりシニカルな歌詞です。
「私はただのろう人形、恋愛経験ないけどかわいい服来て金髪ふりみだし、愛の歌を歌う、おがくずでできたお人形さんよ」といった歌詞。
よくこんな歌をユーロビジョンソングコンテストに出すな、と思うのですが、これがフランス人らしさなのかもしれません。
邦題は「夢見るシャンソン人形」でややニュアンスが違います。
こちらで訳しています⇒歌と訳詞♪:『夢見るシャンソン人形』・フランス・ギャル|penのフランス語日記
60年代はアイドル歌手として大活躍。初期のころは父親の友人でもあったセルジュ・ゲンズブールが書いた曲をよく歌っていました。しかし、70年代に入って売れなくなりました。もうティーンエイジャーでなくなったのと、時代が変わってきたからです。
しかし70年代半ばにミシェル・ベルジェのプロデュースしたアルバムで表舞台にカムバック。1976年には彼と結婚しました。1975年以降のアルバムはすべてミシェル・ベルジェがプロデュースしています。
ミシェル・ベルジェはフランスの歌手であり敏腕レコード・プロデューサーです。
ヴェロニク・サンソンのデビューアルバム(1972年)をプロデュースした人で、公私ともにパートナーとして、彼女の音楽世界を確立するのをサポートしました。
ですが、ヴェロニク・サンソンはパリでCSN&Yがコンサートしたとき知り合ったスティーブン・スティルスに恋をして、ほどなく彼を捨ててアメリカに行ってしまいました。
ヴェロニク・サンソンのデビューヒット⇒歌と訳詞:Amoureuse(恋人)ヴェロニク・サンソン
傷心のベルジェはフランソワーズ・アルディの「私小説」(Message Personnel)というアルバムをプロデュースしたり、自分のアルバムを作っていました。
そんな時に彼は、フランス・ギャルの仕事をするようになったのです。
ちなみに「私小説」は、やはりイエイエ系のアイドル歌手だったフランソワーズ・アルディが、自分の世界を持った歌手として再スタートしたターニングポイントともいえるアルバムです。
フランス・ギャルとミシェル・ベルジェはおしどり夫婦でしたが、1992年にベルジェが心臓発作で45歳で亡くなりました。
フランス・ギャル自身も1993年に乳がんになったのですが、治療をうけて回復。ベルジェが亡くなったあとも数年は、2人でやっていたプロジェクトを完成させるために、1人でステージに立ったりしていました。
しかし、1997年に長女が難病で亡くなってからは、ほぼ引退状態です。たまに友だちに頼まれたり、何かの企画で歌を吹き込んだりすることはあるようです。
ミシェル・ベルジュが人道的活動に積極的だったので、フランス・ギャルもチャリティは熱心にやっています。
たぶん本人は「アイドル時代に歌った歌をまた歌いたい」という気分ではないのでしょう。確かに「60歳超えて歌うのはちょっとね」という歌がたくさんあります。
でも歌そのものは今聞いても楽しいものが多いですね。
フランス・ギャルは残念ながら2018年1月7日に亡くなりました⇒60年代のアイドル、フランス・ギャル、70歳で亡くなる。
こちらの曲もチェックしてください。
歌と訳詞:Laisse tomber les filles~フランス・ギャル(娘たちにかまわないで
それでは次回の音楽の記事をお楽しみに。
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